マルティニーク産のラム。
シモン蒸留所からの原酒供給で、現在はボトリングのみ行っている銘柄。
エティエンヌの兄弟ラムになります。

★クレマン エレベ スーボワ 40度 700ml★

★クレマン プレミアムホワイト アグリコール 40度 700ml★

★クレマンカンヌブリュブルー 50度 700ml★

★クレマンキュヴェ XO 44度 700ml★

★クレマングラップブランシェ ホワイト 50度 700ml★
現在の在庫はこの6アイテム。
アグリコールらしさをしっかりと感じることが出来るブランと、
熟成年数の違いがしっかりと出ているアネホタイプの3種類。
キュベXOはかなりのお買い得ラムとなっていますので、見逃し無く!
ブランはモヒートなどのカクテルベースと言うよりも、
アグリコールらしさとも言えるサトウキビの青臭さと、
まろやかな味わい、切れの良さと3拍子揃っていますので、
そのままストレート+チェイサーか、
オンザロックよりも、良く冷やしたグラスにブランを注ぎ、
ラムが冷えた状態で切れの良さと、
後口のまろやかさを楽しむのがオススメです!
この夏はチェイサーにアサヒビールが遂に出してくれた、
ウィルキンソンのペットボトルを置きつつ、
爽やかに楽しんでしまいそうですw
以下、ラムの聖地「tafia」多東さんのクレマン蒸留所情報を転記します。
Habitation Clement(Domaine de l'Acajou)アビタシオン・クレマン
<沿革>
島の中央東部ル・フランソワにある蒸留所。ボート競技が盛んで、湾からは点在する小さな島々へ渡ることができる。小さいが活気のある街である。
1884年、あるベケ(島に何代も住んでいる白人のこと)の一家に所属していたアカジューの古い精糖工場が破産した。それを植民地不動産銀行が買い取り、1887年に競売で売却した。そうして131ヘクタールの土地とアビタシオン(領主の館)、工場設備が12万3千フランで、当時ル・フランソワの村長だったオメール・クレマンの手に渡ったのである。ミュラート(白人と黒人の混血男性)が広大な不動産を獲得したのは、これが初めてのことだったので、この買収ニュースはマルティニーク中に広まった。オメール・クレマンは1902~1906年まで国民議会の議員にもなっている。1917年、彼はアカジュー(地名。もともとマホガニーの意。)の古い蒸留所を再建した。彼は幼少の時に飲んだ、ラバ式(単式蒸留機)ラムを再現するためにラム作りを始めた。1922年に彼が死去すると、息子のシャルルが小さな精糖工場を建てた。それはその後、数年しか稼動しなかったが蒸留所の財政を大きく支えた。又、彼はフランス本国に最初にアグリコールラムを輸出した最初の人間の一人だった。1938年蒸留所は火事に合うが再建され、生産量も2000から1万ヘクトリットルに増え、マルティニークで最も競争力のある蒸留所の一つとなった。戦後「ラム・アカジュー」は「ラム・クレマン」となり、フランス本国でも広く売られるようになった。又、ラム生産と平行してシャルル・クレマンは1949年に「マルティニーク炭酸飲料会社(CMBG)」を創設し、ペプシコーラ、カナダドライをライセンス生産し、ハイネケンビールを販売した。丁度この頃が全盛期であった。彼の息子ジョルジュ・ルイがマルティニークの企業を担当し、もう一人の息子ジャン・ジョゼはボルドーにクレマンラムを販売するための子会社を創り、発展させた。1973年シャルルの死後、経営困難が次々に重なり始めた。74年にはコアントロー・グループの資本が30%にまでなった。78年CMBGは活動を停止、86年、コアントローが契約を更新しなかったため経営が立ち行かなくなり、クレマン家は領地とアビタシオン、蒸留所とストック、ブランド名をベケのアイヨ・グループへ売却した。クレマンの蒸留塔は88年に稼動を停止し、そのままアイヨ・グループが所有するシモン蒸留所へ移設され、現在もそこで原酒を作り出している。
<特記事項>
シモン蒸留所から原酒の供給を受け、熟成とブレンド、ボトリングのみを行っている。蒸留所内にあるアビタシオン(領主の館)は当時のままに残されているため、島を代表する観光スポットの一つとなっている。蒸留所の入り口で入場料を払い、説明の音声ガイダンスが出る機械を渡され蒸留所内を見学する。蒸留を行っていた当時は、動力を生み出すために、忙しく回転していたであろう大きな鉄の歯車たちが、今では風に押されてキィキィと音を立てていた。ガランとした敷地内にその音が響いている様は、なんとなく寂しげに感じられた。現在、創始者オメール・クレマンとその息子シャルルの名前で、それぞれヴューがリリースされている。
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